昭和46年01月06日 夜の御理解
御理解に三宝様踏むな 三宝様踏むと目がつぶれるという御理解がありますが、三宝様を踏むと言う事でなくて、その踏みつけるような例えば事柄でも物でも、それをこの反対に押し頂くという頂き方、だから踏むのと押し頂くのと、もう大変な開きができてくるですよね。ですからそこんところをね、私信心させて頂くものは、いつも心がけとかなければいけない。
三代金光様でしたか、あるお年寄りの教師に対して、布教に出らして頂かれるのに当たってから、自分が無学であったり、何もできないことをお届けされたところが、親切一つあれば人が助かります、と仰ったという。親切の心と言うのがね、私押し頂く心だと、今日思うですね。ほんとにこの親切の心というのは、あの押し頂く心、踏みつけるとじゃない、押し頂く心ここにね、信心のあるものと、無いものの開きがこんなに出て来るんじゃないでしょうかね。勿論信心でいう親切なんです。
今日は私もう5時近く過ぎ、今日は足が大変痛むから、久富先生に足をもんでもらいながら、休んでしもうとったけれど、起きようと思うてから、ちょっとあの目を覚ましたら、家内の方の部屋で、家内が向こう向きにお針をしているんです。それはもうお針をしているそのまま動きませんから、は眠っているなと思って、また休ませて頂きました、またしたらまだ眠っているから、私が起きると起きるかと思うていたら、そのところがもう御祈念の時間に迫ってきたのでそれでね。
これは神様にお願いするほかに無いと思うて、お願い致しました。そしたらねそしたら間髪いれず愛子がなんか用があってからやってくるんです。ほいでおかげで、まあスムーズに目覚ましの家内もおかげも頂く、私もそこに一つも踏みつけんなりですんだ感じがするね。踏みつけると言う事は、そんなことこらちゅうちから、起きらんかちゅうとは、私は踏みつけんるような感じが致しますね。そこに休んでこうジッとしとるから、眠っとるとじゃ名k間も知れませんけども。
後姿が動きませんからはあ眠むっとるなと、こう何べんも何べんも頭上げていて、そっとする、そういう心が私は親切じゃないかと私はこう思います。それはもう踏みつけるのじゃなくって、押し頂く心ではないかと思うね、そこに神様に願うそこから、そういうおかげを受けられると言う事になるですよね、親切一つで人が助かる、自分が助かるだけでなく、人が助かるというのがこれが信心。これは勿論信心によることなんです。世の中にはずい分親切な人がありますよね、信心はなくても、でもそれはね。
私はもう大したことは無いと思うですね。もう親切すぎて却って、過ぎたるは及ばざるが如し、と言った様な親切をする人がありますが、信心によっての親切と、信心が無くての親切とは大変、その本質的に違ってくるんですよね、信心で親切にならしてもらう、それが三宝様踏むな三宝様踏むと目がつぶれると、いわば戒めておられるが、三宝様を踏むのではなくって、むしろ信心させて頂くものは、それを押し頂くというところに信心があるようですね。
どうぞ。